ぱえ

参照カウント無し

としぁ #1

注意

この記事は#fav2toshi_a Advent Calendar 6日目として書かれたものです。
前回の担当は@totoadadでした。次回の担当は@unaristです。
本当に申し訳ないと思っています。

にゃん

初音ミクとは声優・藤田咲の声をサンプリングして開発されたWindows向け音声合成ソフトで、西暦2007年ごろにリリースされたものであるとほもっきんは記憶していたが、しかしこの時代、そのようなことを口にするのは自殺行為に等しかった。もともと彼はWindows上でプログラミングを行なっていたが、しかし今やWindowsは死に絶え、西暦すら無くなってしまっていた。
世界の三分の一を支配する大国トシアニアの首都、かつてキョウトと呼ばれていた魔都テオグラードは、どんよりとした曇り空に覆われていた。
木枯らしの吹き荒れる街の随所には巨大なポスターが貼ってあり、初音ミクの絵が描かれてあった。
初音ミクがあなたを見守っている」絵の真下には、そんな説明がついていた。
ほもっきんの部屋の向いにある小さな倉庫にも、もちろんそのポスターは貼ってあった。
彼はレッドブルを飲み終えると、薄汚れた制服に着替え、それから時計が壊れていることに気づいて舌打ちした。
それから、Twitterから流れてくるニュース番組に耳をそばだてた。
朝のニュースはいつものように淡々と敵国ハルボニアとの戦況を伝えていたが、だしぬけに、同盟国カズーシアによる突然の条約破棄と本土爆撃についてけたたましく説明しはじめた。
同盟国からの予期せぬ裏切りの報に衝撃を受けたのか、途端に近所の家々が騒がしくなったが、彼の脳内はむしろ、昨日までの仕事が徒労に終わったことへの失望に埋めつくされていた。
公報、新聞、はてなダイヤリー、ツイート、その全てをこれまでも我らがトシアニアとカズーシアは戦時下にあったと書き換えなければならない。
それが、党が彼に与えた仕事だった。
トシアニアにおいて、“初音ミク”は絶対であり、彼女の言葉は神託に等しく、永遠の真理であるとされている。
トシアニアは“初音ミク”への崇拝に基づく独裁国家だった。
とはいえ、独裁という点ではハルボニアもカズーシアも変わらなかった。ハルボニアはツイートの平等を謳っていたが、偽りの平等に溺れた衆愚は、専制君主ハルの人形に過ぎなかった。
一方のカズーシアはクーデターによって生まれた新興国で、赤い装束に身を包んだ人民が、毎日ウサギ跳びを強いられているのであった。
さて、ほもっきんは、暖房の点かない庁舎の二階にある事務所にて、公文書に記されている“初音ミク”の発言の事実と食い違う箇所を修正する作業に追われていた。
これは彼を含む下級党員の責務で、“初音ミク”の発言の正当性、一貫性を保つためのものであった。彼らの手によって常に歴史は改竄され、“初音ミク”は唯一絶対の存在として君臨していたのである。“初音ミク”がからすは白いと言えば、その通りなのである。藤田咲は、どこにもいない。初音ミクは、Windowsでは動作しない。
この体制を素直に受け入れるために、国民には二重思考の訓練が課されていた。
例えば、国民にとって必要不可欠なインフラであるTwitterでは、本来の性別や年齢とは無関係に幼女であることが求められている。これは正常な判断力と矛盾を何一つ疑わない感性を同居させるための訓練であり、Twitterは“初音ミク”の絶対性の下地を形作るものであった。同時に、危険思想の持ち主を監視するためのツールとして秘密警察に大いに利用されていたのである。
ほもっきんは、欠伸を必死に噛み殺しながら、真面目くさった顔で、5月13日付新聞に書かれた「我が国は10月までにハルボニアを撃滅するであろう」という“初音ミク”の談話を「我が国がカズーシアに屈することは決して無いだろう」に書き換えていた。
彼はこのような仕事を気に入っていたわけではなく、むしろ嫌悪していたが、さりとて仕事を放棄するわけにもいかなかった。トシアニアは秘密警察制度が充実しており、“初音ミク”への叛意ありと見做された場合即座に逮捕されるからである。
午前11時半。庁舎三階の講堂へ招集がかかった。
二分間憎悪の時間だった。
彼が講堂に到着した時にはすでに50人を超える党員が集まっていた。講堂の中には椅子が円形に並んでいて、中央にスクリーンが設置されていた。彼は講堂の右後方に座ると、二分間憎悪が開始されるまでの間、周囲の党員を見回していた。すると、こちらを振り向いた男と目が合った。
としぁという男で、中央最前列に腰掛けていた。としぁはTwitterクライアント“mikutter”開発部門を統括するTEOという役職だったが、党の中央部ともコネクションがあると専らの噂だった。
ほもっきんは、仕事に嫌気がさしていることを悟られないよう、努めて平静を装った。二人の視線が交錯したのはほんの一瞬だったので、本当に彼と目が合ったのかどうかほもっきんにはわからなくなってしまった。
唐突にファンファーレが鳴り響くと、二分間憎悪が始まった。今日は、Windows憎悪強化デーだ。
Windowsのロゴ。ブルースクリーン。終わらないデフラグにフリーズ。UAC。エクセル。ワード。パワーポイント。
おどろおどろしいBGMとともに、新世紀エヴァンゲリオンのオープニングのように、あるいは走馬灯のように画像が続々と表示される。どれも恐怖心を煽るかのように誇張されており、新しい画像が表示される度に、党員たちは目を血走らせ、罵倒の言葉を叫ぶのである。
これが二分間憎悪であった。このようにして、党員の団結心は強まっていくのである。ほもっきんは一人冷めた気分でいたが、そうと気取られぬように、党員たちとともに口汚く絶叫した。
中でも、Internet Explorer 6のアイコンが投影されると、党員の熱狂は最高潮に達した。
その時、としぁが振り向いた。またしても彼と目が合ってしまった。まずい。ほもっきんは顔を引き攣らせながら、それでも“初音ミク”への忠誠心溢れる党員の姿を装おうとした。
しかし、憎悪に支配された空間の中で、確かに彼の表情は悲しみに彩られていたのである。優秀なTEOだと聞いていた彼の思いがけない態度に、ほもっきんは戸惑った。
あるいは、とほもっきんは思った。彼も、党の、“初音ミク”の独裁体制に疑問を抱いているのではなかろうか。
始まった時と同じように唐突に、二分間憎悪が終わった。これで午前は終わりだ、彼は地階にある食堂へ向かった。
不味いカレーの始末に難儀していると、しじんがやってきた。
彼は“初音ミク”ちびっこお絵かき大会の広報に従事しており、また、いつもえりつぃんと名付けたぬいぐるみを抱き抱えているので、遠目にでもすぐわかるのである。えりつぃんは、お腹にあたる部分を押すとエリツィンダヨーと声が出る、愉快でかわいらしいぬいぐるみだった。
「元気にしてましたか」ほもっきんはえりつぃんぬいぐるみのお腹を押しながら聞いた。
「ひあ!」
このところ党が熱心に喧伝しているせいべ語法にのっとってしじんは答えた。
せいべ語法では“はい”も“いいえ”も“ひあ”と表現する。
せいべ語法とはようするに推敲しないまま発話するすることであり、交流の迅速化を図るという名目で奨励されていたが、思考内容をそのまま声に出すことを奨励しているわけで、反動思想の持ち主を炙り出しにする言語体系を樹立するための計画であった。
これも、“初音ミク”による支配体制を強化するためのものであった。
しじんと二人で「ひあ!ひあ!」と言っていると、午後の業務の時間になった。
午前と変わらず、“初音ミク”の発言を書き換えるだけの作業。
初音ミク初音ミク初音ミク
初音ミク”は偶像にでしかないのに、本来はWindows用ソフトウェアの筈なのに、しかしこの世界には*NIXしかなく、mikutterという神棚があるに過ぎなかった。
発狂しそうになるのを堪えながら、ほもっきんは“初音ミク”に相応しい台詞を考え続けた。彼女が全て、それがこの世界のルールだった。
いつしか日が暮れ、庁舎の外は真っ暗になっていた。
彼は一人でとぼとぼと帰路についた。やっとの思いで駅のホームに到着した時には、終電は無くなっていた。
「…えますか…聞こえますか…」
不意に、微かな音が彼の耳朶を叩いた。
振り向くと、としぁがいた。
ほもっきんはあまりの驚きに失禁しそうになったが、なんとか堪えて言った。
「ア…貴方も、終電を」
「ておくれた」
としぁは重々しく答えた。ておくれ、そう、彼はておくれてしまったのだ。
「しかしまだ、貴方も、世界も、完全にておくれてはいない筈です。違いますか」
「そうだ、まだWindowsは生き残っている」
今度こそほもっきんは驚愕のあまり失禁した。
「Windowsが、まだ生き残っているというのですか」
「君は、それを守りたいのだろう」
「はい」
「Windowsがどれほど憎まれていようとも」
「…」
「mikutterが動作しなくても」
「…」
「この世界に自由はない」
「……そうです」
藤田咲は」
「存在しません」
ぼんやりと街路を照らす電灯を、としぁは見上げた。ほもっきんも彼に倣った。
電灯には何十匹もの虫が集まっていた。
としぁは電灯を登っていたカナブンを掴み、むしゃむしゃ音を立てて食べた。
「だが、自由は君の心の中にある」
「ええ」
「私の心の中にも、然りだ」
としぁはにこりと笑った。当初ほもっきんがとしぁに抱いていた恐怖心は、すっかり消え失せていた。
二人は握手を交わすと、それぞれ逆方向に歩き出した。
「いずれ君と、暗くない場所でまた会うことになるだろう」
後方から、としぁの声がした。
振り向くと、彼は闇の中に消えていた。
町中が寝静まっていた。
一時間ほど歩いて、彼は自宅に辿り着いた。
時計は壊れたままだったので、今が何時なのかはわからなかった。いずれにせよ明日は非番だ。彼は戸棚からレッドブルの缶を取り出し、じんわり染み込んでくる薬品めいた味を楽しみながら、ぐったりと椅子に座りこんだ。ひどく疲れてはいたが、彼の心は深い喜びで満たされていた。自分の理解者がいたのだ。どれだけ党が圧政を敷こうと、自由は我々の心の中に在るのだ。暗くない場所でまた会うことになるだろう、そうとしぁは言った。いつの日か、我々の時代が、自由な時代が、Windowsで初音ミクを動かすことができる時代が、また来るのだ。希望が全身の細胞に満ちていくようにほもっきんは感じた。
彼はノートパソコンを開くと、Twitterを開いた。
深呼吸をして、彼はとしぁに語りかけるような思いでツイートした。